02 / 吉田猫次郎
私の壮絶体験記
このページの目次
- 2.1 商社マンから、連帯保証人&多重債務者への転落
- 2.2 自殺未遂寸前 ~ 死に場所を求めて、雪道を彷徨う
- 2.3 転機 ~ ひょっとしたら、自己破産せずに、借金が半減するかもしれない!?
- 2.4 戦いの幕開け - ヤミ金との戦い開始
- 2.5 ついに返済を止め、不渡りを出す――「肉を切らせて骨を断つ」作戦
- 2.6 二度目の不渡りを回避するための交渉
- 2.7 監禁される
- 2.8 一気に形勢逆転。ヤミ金の 700 万円が、140 万円に減る!
- 2.9 7500 万円の借金を、1 年足らずで 3000 万円以下に減らすことに成功
- 2.10 業績回復……徐々に安定化
- 2.11 しかし、借金地獄を脱出した後も思わぬ「苦悩が」・・・
- 2.12 ホームページ開設。吉田猫次郎誕生 ~ 何かを得たい&与えたい
- 2.13 私よりも悲惨な人が、大勢いることに気づく
- 2.14 アクセス数飛躍、専門家の人脈発展、相談レベルアップの相乗効果
- 2.15 本を出す
- 2.16 そして現在
注: この原稿は、『借金なんかで死ぬな!』(朝日新聞出版,吉田猫次郎著,2009 年,絶版)の初稿を元に、2026 年 10 月に加筆修正したものです。当時の原稿は今読み返すと稚拙な部分が多く、最初から書き直そうかと思いましたが、時間がないのでこのようにしました。それでははじまりはじまり。
2.1 商社マンから、連帯保証人&多重債務者への転落
私は 1968 年に東京都練馬区で生まれ、そこそこの都立高校、そこそこの私立大学を出て、バブル末期と就職氷河期の境目にギリギリ滑り込みで東証一部上場・旧三井系の準大手商社に新卒採用され、約 6 年間、その商社に勤務していました。給料は上場企業の中でも良いほうで、福利厚生も良く、あのまま辞めないで定年までいれば生涯賃金 3 億円くらいもらえたかもしれません。
・・・というと順風満帆な青年時代に思われるかもしれませんが、今思えば、小学生の頃
から経済的苦労は少なからずありました。
小学校 5 年生まではヴァイオリンを習ったり、まあまあの生活水準だったような気がしますが、5 年生の秋に、母がガンで長期入院し、その頃から次第に家計が苦しくなっていくのを肌で感じていました。中学 1 年の時には家の電気を止められ、両親は仕事でどこかへ出かけていて、懐中電灯でインスタントラーメンを沸かした日もありました。何度かそういう経験をしました。高校時代は都立高校の安い学費を延滞し、アルバイトの給料で出した事もありました。浪人時代は新聞配達をしながら図書館で 1 年間独学しました。大学は私立にしては安いほうだった中央大学を選びましたが、3 年生の前期に学費未納で除籍扱いになりかけ、自分のバイト代で捻出するから少し待ってくださいと学生課に相談したこともありました(今思えばこれが人生初の「リスケ交渉」だったような・・・)。
また、前後しますが、小学生の頃から、父と母の仕事を手伝ったり、売掛金の集金や、手形割引、社会保険納付猶予の申請などに一緒について行ったり、そういうふうにして育ってきました。まあ、いい勉強をさせてもらいました。
そんな私ですが、1995 年の商社在職中に、両親が資金繰り悪化のため年利 40%近い商工ローンから借入し(そのだいぶ前からカードのキャッシングをするほど公私共に逼迫しはじめていた)、私はその商工ローンの連帯保証人になりました。当時 26 歳か 27 歳。最初
の借入金額は 300 万円でその後すぐに増枠。言われるがままに印鑑証明と実印を持参し、契約の際には全員集合でニッコリ笑って集合写真を撮られました。契約書には「連帯根保証」と書かれていました。地獄の始まりです。
翌 1996 年には、海外への事業投資で失敗し、資金繰りがさらに悪化。2 件目、3 件目の商工ローンの連帯保証人にもなってしまいました(年利 35%以上、約 500 万円)。
もともと信用が無いので、銀行からは借りられません。業種は輸出入貿易業。業歴は昭和46 年から。一応、会社法人にはなっていますが、家族経営で規模が非常に小さく、自営業のようなもの。経理はどんぶり勘定そのもの。もはや会社経理と家計の区別もつかないような状態で、いったい、運転資金が足りないのかそれとも生活費が足りないのか、問い質してもさっぱりわからないような状態でした。銀行からも融資を受けられなかったのも当然ですね。
商工ローンからの借入だけでも足りないというので、次は、私が勤め先の商社で組んでいた財形貯蓄(全部で 300 万円以上)を何回かに分けて全額崩したり、私個人名義で消費者金融やカードローンを多数借りたりして、家業の苦しいのを次から次へと肩代わりし、あっという間に私まで多重債務者になってしまいました。1996-97 年の事です。「雪だるま式に借金が膨れ上がっていく」とはよく言ったものですね。
そして 1997 年暮れ、私名義の消費者金融とカードローンの残高が 600 万円を超え、連帯保証債務もすでに 2000 万円か 3000 万円を超えており、さすがにこのままではとても返しきれないぞと悟った私は、思い切ってサラリーマン生活を辞めて、家業を継ぐことを決意しました。会社には「親が病気になって家業を継がなければならなくなった」と嘘をつき、1998 年 5 月、29 歳のときに自己都合で退職しました。当時は「グレーゾーン金利」や「債務整理」などといった言葉を全く知らず、ただただ、「稼いで返す」ことしか頭になかったのです。無知とは恐ろしいものですね。
(注: 奇しくもこの頃、山一證券が倒産した翌月の 1997 年 12 月、私の勤務先の商社も突然、負債総額 6400 億円超で会社更生法を申請しました。私はそのとき、中国の大連に出張していて、現地の取引先からニュース速報を知らされました。その後、この商社は更生計画認められ、世界最大の穀物メジャーがスポンサーにつき、三井系から外資系へと生まれ変わりましたが、私個人としてはこの時、「勤務先の超大型倒産の現場」と「実家の零細自営業の倒産寸前現場」の両方を目の当たりにして、複雑な気持ちを抱え、どちらを取るか熟考を重ねた末、家業の建て直しを選んだ次第です・・・)
サラリーマン生活は充実していました。20 代の若造でしたが、一担当者として億単位の取引を任され、アメリカや東南アジア各国に頻繁に出張に飛び回り、年商 100 億規模の取引先の与信管理や再建計画に触れさせてもらったこともありましたので、実家の両親には「俺が家業を継げば、あっという間に借金なんて返せるさ。任せておけ!」と言って安心させて、自分でも半ば本気でそう信じていました・・・というか、そう自己暗示にかけて家業を継いだような、そんなモヤモヤした心境でとにかく先へ進みました。
しかし現実は厳しいものです。実際に家業を継ぎ、代表取締役に就任して初めてわかったことですが(いや、前から気付いていましたが)、大企業と自営業ではヒト・モノ・カネのあらゆる面で大きなギャップがあります。信用も資金もなく、当初思い描いていた我が家の再建計画は、最初から大きく狂っていきました。収益はそこそこアップしたものの、膨れ上がった借金と高金利をはね返すほどには至らず、毎月、いや毎日、資金繰りに追われることになりました。連帯保証人としてではなく、今度は当事者として。
苦しいにもかかわらず、私たち親子は、借金の返済を 1 日も遅らせたことがありませんでした。変なところで真面目なのです。「遅らせたら大変なことになる!」と、そんな気持ちに駆られながら、どんなに無理をしてでも借金の返済を続けました。たとえ他社から高金利で借りてでも。
こうして、気がつけば本業そっちのけで金策に走り回る毎日。将来のビジョンなんて全く考えられず、頭の中は明日の金策のことばかりに支配されていきました。こういうのを、ミイラ取りがミイラ、貧すれば鈍すると言うのでしょうか・・・。
我が家の借金が最も増えたのは 1999 年未頃のことです。親のせいにしてばかりしてきましたが、この年、私も致命的なミスをしました。怪しげなDM(1 億円まで即日融資、低金利、無担保、仮審査 OK などと書かれた FAX)に乗せられ、ノコノコと神田の雑居ビルへ出向いて、着いてからトイチ(10 日で 1 割)だと知らされ、でも明日の支払い資金がないから背に腹は代えられないと冷静な判断力を失い、100 万円ほど借りてしまったのです。100 万円の手形と白紙委任状を取られて。
最初は 1 件だけ借りましたが、なにしろ 10 日で 1 割の利息なのですぐに枯渇し、ちょうど枯渇したタイミングで別の業者から怪しげな DM がまた来るものですから(彼らは全員グルであることが後に判明)、それに乗って 2 件目のヤミ金に手を出し、そんなことを半年ほど繰り返して、最終的に、6 社、計 700 万円の超高金利借入が加わってしまいました。これは完全に私の判断ミスです。アホの極みです。(一体、大学や商社で何を学んだんだよ)
当時の経営状態をわかりやすくまとめると、次のようになります。
[1999 年末の、主だった資産と負債](法人と個人を含む。業界用語でいう、中小企業特性考慮後実態貸借対照表のような・・・)
| 資産 | 金額 | 負債 | 金額 |
|---|---|---|---|
| 現預金 | 0 万円 | 短期ヤミ金 | 700 万円 |
| 売掛金 | 200 万円 | 商工ローン | 4,500 万円 |
| 在庫 | 300 万円 | 住宅ローン | 500 万円 |
| 自宅(時価) | 2,000 万円 | 父名義の借入 | 500 万円 |
| 車 | 50 万円 | 母名義の借入 | 450 万円 |
| 私名義の借入 | 850 万円 | ||
| 資産合計 | 2,550 万円 | 負債合計 | 7,500 万円 |
[1999 年、最悪期の損益計算書](売上と営業利益は増加したが、利息が・・・)
| 項目 | 金額 |
|---|---|
| 売上高 | 2,800 万円 |
| 売上原価 | 1,700 万円 |
| 売上総利益 | 1,100 万円 |
| 販管費 | 700 万円 |
| 営業利益 | 400 万円 |
| 支払利息 | 2,000 万円 |
| 経常利益 | ▲1,600 万円 |
[窮境原因]① 長年の売上不振(1996~98 年頃は年商 1700 万円未満まで下落)② どんぶり勘定③ 新規事業(中国での合弁会社設立)の失敗④ 多重債務と高金利と超高金利
〔借入先内訳〕(1)商工ローン 3 社 年利 35%~39% 計 4500 万円 取引年数 2 年半~5 年 自宅に根抵当権設定。2 社は手形貸付。連帯保証人は父、母、私。(2)銀行(メガバンクの住宅ローン。唯一の銀行借入)父個人名義。残債約 500 万。
(3)父名義のカードローンや消費者金融、計 500 万、6 件、年利 30%前後のところが大半。取引年数は 8~10 年前後。(4)母名義のカードローンや消費者金融、計 450 万くらい、5 件、年利 25%前後~35%、取引年数は 5~6 年のところが多い。(5)私名義のカードローンや消費者金融、計 850 万くらい、12 件、年利 25%~38%、取引年数は 3 年前後のところが多い。(6)ヤミ金 計 700 万、6 件、「10 日で 2 割」のところが多い。いずれも手形貸付。期日無記載の手形と白紙委任状と印鑑証明を取られている。99 年 7 月頃から急速に増えた。
〔連帯保証〕主債務者は家業の会社法人。連帯保証人は父、母、私、また借入先によっては弟や父の友人も。
〔事業の将来性〕ここ 1~2 年は将来性のある自社商品を扱いだしたので(商品のオリジナリティ、利益率ともに高い)、売上高と営業利益はやっと増加に転じた。しかし資金不足と資金繰りに時間を奪われすぎたことにより、販路開拓に専念できないのが悩みの種。もし資金繰りが正常になり本業に没頭することができたら、売り上げを 1 年で 2 倍、2 年で 3 倍ほどに増やしていける自信はある。だがそれを達成できても、現在の雪だるま式に増えていく借金を減らしていくことは不可能だろう。(なにしろ利息だけで年 2000 万以上もあるのだ。ということは、毎年 2000 万円の営業利益をコンスタントに出しても、すべて利息に取られ、借金が全く減らない計算となる・・・)
これを読んでいる皆さんだったら、どうやってこの状況を切り抜けますか!?
2.2 自殺未遂寸前 ~ 死に場所を求めて、雪道を彷徨う
私たちは、会社経営はもとより、借金についても全くの無知・無防備でした。漠然と、子供の頃から教わってきた「借りたカネは返さなきゃいけない」「約束は守らなければならない」という言葉に従い、必死にそれを実行するばかり。「約束通り返済できなければブラックリストに載り、自己破産を余儀なくされ、社会復帰の道を閉ざされ、生きていけなくなる。だから、約束どおり返すか、破産か夜逃げか自殺かの二者択一しかない・・・」と、そんなふうに思い込んでいました。
ここで白状しますが、私は 1999 年の暮れから 2000 年の正月休みにかけて、自殺をかなり本気で考えたことがあります。新入社員の年から死亡時 5000 万円の生命保険に入っていたので、私一人が犠牲になれば我が家の借金をある程度返せると思ったからです。もちろ
ん死ぬのは嫌でしたが、あの当時は、「もはや生命保険目当ての自殺しか方法はない!」としか考えられなくなりつつありました。債務整理はおろか、専門家に相談に行くことさえ当時は強い抵抗があったので、一人で悩む毎日・・・。
「相談する先は弁護士しかない」
「弁護士に相談することは債務整理や自己破産を意味し、それらは敗北を意味する」
「一度でも敗北したら二度と社会復帰できない。それは死に等しい」
「どうせ死ぬなら、お金になったほうがいい」
と、そんな思考回路にとらわれていたのです。
年末年始、酒を飲んで生命保険の証券をぼんやり眺めながら、死に方を具体的に検討し始めました。そして、「交通事故死に見せかけて死のう」と思い至りました。「交通事故、それも運転中の自損事故ならば、自殺に見えないので周囲を必要以上に傷つけることもないだろう。保険金も、生命保険+自動車保険が期待できる。全額返済できるかもしれないぞ・・・!」
1 月上旬のある日、私は決死隊のような心境で、車を走らせました。この日はたまたま東北方面へ出張があり、それを名目に、高速道路を使わず険しいルートを回り道して、うっすら雪の積もる山道を飛ばしたのです。「ガードレールを突き破って転落死を!」「苦しまずに死ねますように!」と。
しかし・・・、いざとなるとなかなか事故には至らず(私は運転が大変上手いのです)、何百キロも走って疲れ果てた私は、一旦街中まで降りることにしました。尽きかけていたガソリンを補給して、国道沿いのラーメン屋で腹を満たして、そのついでに、隣接していた大型書店に入りました。「何か死に方のヒントになる本はないかな・・・」と。
その時、ふと、興味深いタイトルの本を 2 冊見つけました。一冊は宮崎学の『カネに死ぬな、掟に生きろ』。もう一冊は岩井義照の『倒産は必ず防げる』。どちらも死に方のヒントになる本などではなく、生きる希望を与えてくれそうなタイトルの本です。私はこの 2 冊をほぼ無意識に手に取り、気がつけばレジでお会計を済ませて、車の中で震えながら夢中になって読んでいました。その本には、私の凝り固まった既成概念を覆してくれることがふんだんに書かれていました。
「カネなんてただの紙切れだ。いや、紙切れですらない」
「わしはヤクザから 30 億の借金がある。今は返せないから返していない。でもいつか返
そうと思っている」
「倒産は、本人の気持ち次第で必ず防げる」
「返せないのは悪ではない」 などなど・・・。
具体的な打開策が明確に書かれている本ではありませんでしたが、とにかく「意識」の面で大きく救われたのは確かです。おかげで、この日は死ぬ気がほとんど失せ、気を取り直して帰路につくことができました。
また同時に、おぼろげながらヒントが見えてきた気がしました。
「今まで自分は、契約どおりに返すことしか頭になかった。でも、ひょっとしたら、全額返済か?それとも自己破産か?の極端な二者択一ではなく、その中間、たとえば半額だけまけてもらうとか、利息だけでもまけてもらうとか、返済条件を長期化させてもらうなど、債権者になるべく迷惑をかけずに自分も生き残っていける方法があるのではないか?」と。
2.3 転機 ~ ひょっとしたら、自己破産せずに、借金が半減するかもしれない!?
家に帰ってしばらくしてから、もう一つ、大きな転機がありました。大学時代の同級生で長い友人関係を経て 1 年ほど前からお付き合いしていた女性のお腹に、子供がいることが判明したのです。彼女は私の借金のことを知ったうえで付き合ってくれていました(それだけで泣けます)。常識的に考えたら、数千万円の多重債務を抱えている私が子供を作るなんてとんでもない話ですが、私は大きな運命のようなものを感じ、嬉しさを堪(こら)えることができませんでした。まるでお腹の子が、母親と一緒に、私に「生きろ!」と訴えかけているような気さえしました。もちろん、厳し過ぎるほど厳しい現実を抱えているので、子供ができたことを手放しで喜ぶことはできません。私は現実との狭間に悩み抜いた未、婚約者になるべく精神的負担を与えないよう、「手段を選ばず、早期のうちに借金を整理しよう」と決意を固めました。もう「額面どおり契約どおり返すこと」にこだわっていられません。たとえ世界中が敵でも、生き延びて、妻子を幸せにせねば!と。(もはや事業再生というよりサバイバルのような心意気です)
この頃には完全に、
「カッコよく死のう」から「カッコ悪くても生きよう」へと意識が激
変していました。
以後、私は、毎晩インターネットで情報収集し(当時はインターネットが現在ほど普及し
ておらず、ネットでの情報収集だけでは不十分でしたが)、図書館で法律書や判例の本などを読みあさり、池袋や新宿の大型書店で借金にまつわる本を何冊も買い、弁護士会の有料相談に 4 回ほど通い、税理士や民間のクレジット・サラ金救済団体にも数回相談し、霞ヶ関の裁判所へも下見に行き、解決のための猛勉強を重ねました。2000 年 1 月中旬から 2月中旬までの約 1 か月間です。「意識改革」ができた次は、「知識」を身につけようというわけです。
相談に乗ってくれた専門家のほとんどに「こんな酷いケースは見た事がない」「もう手遅れだよ」「自己破産しかない」「君はまだ若いんだから、いちど自己破産してゼロから再出発したほうがいいよ」と異口同音に言われたことに軽いショックを受けましたが、めげずに、つとめてポジティブ思考に徹し、その助言の中にわずかなヒントを見つけ、そのヒントをつなぎ合わせていくうちに、おぼろげながら、自己破産以外の解決の糸口があることも見えてきました。
複数の弁護士さんの説得によって、我が家の場合は「自己破産」でリセットした上でゼロから再出発するのが経済的合理性から見てベストであることはよく理解できました。また、自己破産は自分がイメージしていたよりも社会的ペナルティが少なく、借金を返せなくなった人を「救済」するためにあるような制度であり、十分に社会復帰のチャンスがあることも知りました。
でも自己破産はしたくない。私や私の家族は、自己破産で借金が全額チャラになることまでは望んでいなかったのです。「チャラになる必要はない。借金がある程度減って、利息も安くなってくれれば、事業の将来性から見て、どうにか返せるようになると信じている。できればそうしたい。借りたカネは可能な限り返したい。それが不合理な選択でも構わない」「連帯保証人にも迷惑かけたくない」と。
結果、私たち家族は自己破産をあえて選ばず、もう一つの考えられる選択肢として浮かび上がった、「グレーゾーン金利の引き直しで借金を減らして、減った借金を返す」という方法を選び、本腰入れて検討し始めました。
よく考えたら、我が家の借金の総額 7500 万円に対し、これまで返済してきた金額の累計がおそらく 8000 万円近くにのぼっており、にもかかわらず、借金が一向に減っていないのです。これに気づいた私は、父と手分けして、借り入れ先 1 件 1 件の取引経過を「利息制限法」で引き直して、手作業で計算してみました(うちの父は会社経理はまるでダメでしたが、そろばん 1 級で、国立の理系も出ていて、おそろしく計算が速いのです)。
結果、なんと、7500 万円の借金が、計算上は 3000 万円以下に減ることがわかりました。つまり、3000 万円も返せば、債権者は全く損しないどころか、元金と利息制限法上限金利に相当する利息ぐらいは回収して、それなりに利益を得ていることになる計算です。
債権者に(計算上)損させず、自分も生き残れる! こんな良い方法が他にあるでしょうか? あとは、それをいかに実行し、業者との交渉をうまくいかせるか、だけです。これが最大の難関だろうと思われました。何かを犠牲にする覚悟がなければまず達成できないでしょう。
弁護士に債務整理を依頼するお金がなく、30 分 5000 円x数回の相談料金を捻出するだけで精一杯でしたので、我々家族は、試行錯誤を覚悟で、自力で債務整理することを決意しました。裁判所の手続きが必要な場合も、自分で訴訟することにしました。いわゆる本人訴訟というやつです。かなり難しい手続きが必要になるかもしれませんが、それも覚悟の上で。
それはもう、あらゆることを覚悟しました。うるさい取り立ても覚悟。約束手形の不渡りも 1 度ぐらいは覚悟。差押も覚悟。そしてまずは、手元に資金を残すために、「数か月間だけ借金返済を一切ストップする」ことにしました。医療でいえば止血です。消費者金融も、商工ローンも、銀行も、ヤミ金も、すべてストップ。どんな罵声を浴びようとも・・・。
2.4 戦いの幕開け - ヤミ金との戦い開始
2000 年 2 月下旬。自分なりの型破りな再建計画が固まったので、いよいよアクション開始です。まずは最もヤバい相手である「ヤミ金」との自力交渉から始めることにしました。
ヤミ金からは「10 日で 1-2 割」の利率で、6 件、計 700 万円ほど借りており、すべて自社振出の約束手形(決済期日の記載なし)と白紙委任状と法人・個人の印鑑証明を取られています(本当にバカですね)。よって、返せなくなったら、即、「不渡り」や「車や土地建物の名義を変えられて取られる」ことを覚悟しなければなりません。また、相手はどことなくヤクザやホストのような風貌ですので(多くは茶髪またはオールバックの髪型に、黒っぽいスーツ姿でした)、何をしでかしてくるかわからない恐怖感があります。貸金業規制法によって「取り立てでやってはいけないこと」がいくつも規制されていますが(早朝深夜の追い込み禁止、暴言禁止、連帯保証していない家族への取り立て禁止など)、ヤミ金にそんなものが通用するとは到底思えません。
しかし、我々には勝算がありました。「ヤミ金は、刑罰の対象となるような超暴利を取っている。警察が本気で動き出せば、ヤミ金業者は逮捕されてしまい、商売どころではなくなってしまうはず」「ヤミ金は商売(ボロ儲け)を目的として活動しているのだから、逆に言えば、儲けにならないリスキーなことはしたがらないはずだ。領収書や契約書など証拠を残さず、自分たちの正体も明かそうとしないことが、その表れだ」「彼らは犯罪であることを自覚しており、警察の目を盗みながら暴利の商売をしているのだ。ギリギリまで脅すだろうが、イザとなったら手を引くはず」
ヤミ金の借入残高は計 700 万円ありましたが、このわずか数か月間のうちに、利息としてかなりの金額(550 万円以上)を支払ってきたので、これを法律に従って引き直し計算すれば、法的に返さなければならない金額はわずか 150 万円以下で済むはずです。いや、それどころか、民法 708 条(不法原因給付)などの判例もあるようですから、元金まで全額チャラにできる可能性さえあります。でも心情としては、借りた分だけは返したい。そこで、交渉の落としどころは、「計 700 万円のヤミ金債務を、150 万円に値切って、分割払いで和解すること」と設定しました。
交渉を有利に働かせるために(素人が丸裸で交渉できるわけがありませんから)、戦いのための「武器」をいくつか用意しました。
まず、戦うには敵の正体を知らなければ戦いようがありませんので(「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と昔から言いますし)、ヤミ金業者の概要を少しでも詳しく知るべく、貸金業登録しているはずの東京都(都庁・貸金業登録関係の部課)へ出向き、ここでヤミ金の代表者、代表者住所、登録の有無、法人登記の有無などを調べてきました。驚くべきことに、株式会社xxと名乗っていた 6 社のヤミ金のうち、5 社までは会社登記すらしておらず、個人事業主でした。また、6 社のうち 2 社は貸金業免許を持っていない無免許業者でした。虚偽の申告や無免許営業の事実を知っただけでも、十分な手がかりになります。どちらも行政処分や刑罰の対象になるからです。
次に、強敵と戦うためのツールとして、警察への被害届の下書き準備と、簡易裁判所への「特定調停」(これは 2000 年 2 月中旬から施行された、当時出来立てホヤホヤの新制度でした)の申立手続の準備をしておきました。
その他の武器としては、取引経過(借りた日付と金額、返した日付と金額、その合計と差額)を一覧できる表を作り、あとはこっそり録音できる機材なども用意しておきました。これで「心の準備」も、「モノの準備」も万全です。たぶん。
2.5 ついに返済を止め、不渡りを出す――「肉を切らせて骨を断つ」作戦
そして数日後、決戦の日がやってきました。
まず 2 下旬、確か 2 月 26 日頃だったと思いますが、ヤミ金事務所へ出向き、「もう約束どおりの返済はできません。今まで返した利息を元金として計算して、残元金をまけてください。そして残元金を法定金利内での分割払いにさせてください。お願いします」と手紙を添えて頭を下げてきました。しかし案の定、「ふざけるな!!」と一蹴され、交渉は決裂。この日から返済は止めました。これが生まれて初めての借金返済ストップです。
翌日以降、6 社からすごい頻度で電話や訪問がありました。電話は毎日数十回x6 社。訪問も毎日。それでも我々は懲りずに、同じような交渉を繰り返しました。
そうしているうちに、最も恐れていたことのひとつが起こりました。2 月 28 日のことです。ヤミ金に担保代わりに預けていた約束手形のうち 2 枚が銀行に回され、とうとう残高不足のまま不渡りを出してしまったのです。生まれて初めての手形不渡りです。
(注:6 か月以内に手形不渡りを 2 回出すと、銀行停止処分になります。1 度目ならギリギリセーフとも言えますが、手形交換所から不渡情報が全国に告知されて銀行にも知れ渡るので、信用失墜という意味では致命的になります。それでも私たちは、「2 回出さなきゃセーフだ」という意気込みで乗り切りました・・・)
不渡りの次は、恐ろしい取り立ての嵐です。2 月 28 日の夕方から夜にかけて、黒いスーツを着たヤミ金業者が 6 社一斉に自宅と事務所にやってきて、自宅を取り囲んだり、大声で馬声を浴びせてきたのです。我々はすぐに警察と近所に住む父の友人を呼んで、その日はなんとか帰ってもらいました。(当時、まだヤミ金が社会問題化されておらず、罰則も緩かったので、警察は「民事不介入」と言ってなかなか本気にしてもらえませんでしたが、110 番通報するだけでも、ヤミ金の動きを抑える効果はありました。)
もともと手形不渡りも厳しい取り立ても覚悟しており、「肉を切らせて骨を断つ」ことを戦いの基本方針としていましたので、想定通りではありましたが、案の定、この日は相当疲れ果てました。
2.6 二度目の不渡りを回避するための交渉
翌日、さらに厳しい戦いが続きました。早朝からものすごい頻度の電話です。数分おきにヤミ金から電話がかかってきます。でも、この頃になると私もだいぶ腹が括れて、ピンチをチャンスに置き換えることができるようになってきました。「手形不渡りを昨日出したことも、考えようによっては、相手に全額回収を諦めさせる契機になるかもしれない。なにしろ 2 回目の不渡りを出したら銀行取引停止になり、事業継続が不可能に近くなる。そうなったら相手は完全に回収できなくなる。それに、土地建物は銀行や商工ローンに担保に取られているから、手形だけがヤミ金にとって唯一の回収手段なのだ。その心理を突けば、2 度目の不渡りを回避することも、減額交渉を成立させることもできるはずだ!」と。
また、遡ること数日前、万一のために、私はヤミ金 6 社を相手取って、東京簡易裁判所に「特定調停」を申し立てていました。特定調停は安い費用(6 社あわせて数千円)で比較的簡単に手続きでき、そのうえ取り立てを暫定的にストップさせることができると聞いたからです。もし話し合いでの交渉が決裂しても、まもなく裁判所からヤミ金宛てに特定調停受理の郵便が行くはずだから、そうなればヤミ金を裁判所に来させてフェアに話し合うことができ、二度目の不渡りも回避できるはず。ただ、特定調停はまだ施行されたばかりの新しい制度でしたので、過度な期待はしませんでした。ヤミ金の横暴を少しでも抑制できればいいなという程度の位置づけで使うことにしました。最後に頼りになるのは自分だけです。やれることは全てやるしかない。そのひとつひとつが弱くても、地道な戦法を積み重ねればきっと勝てると信じて。
特定調停申立に加えて、少しでも相手にプレッシャーを与えるべく、次のような「手紙」もヤミ金各社に送りました(名づけて「お手紙作戦」)。郵便局を使わず、夜中にヤミ金事務所まで行ってポストに投函しました。
「弊社の不徳の致すところで、昨日、1 度目の不渡りを出すに至りました。このままでは2 度目の不渡りも必至です。2 度不渡りを出したら事業を断念せざるを得ませんので、その場合は自己破産手続きを弁護士に委任することになるでしょう。しかし、できれば自己破産せずに、貴社に借りた金を返したい気持ちが今も強く残っています。もはや法外な利息を支払う余力はありませんが、どうか借りた元金だけでも返済させてください。ここでいう元金とは、貴社が要求する額面どおりの元金(例:100 万円)ではなく、今まで支払った法外な金利分を引いた金額(例:20 万円)だけです。それも、一括では返済することができませんので、分割払いにさせてください。実は、このようなお願いをするべく、先日、東京簡易裁判所で「特定調停」の申し立て
をして参りました。事件番号は平成 12 年(特ノ×××××号)です。債務額を法的に確定して、それ返すための話し合いです。借金を踏み倒す気は毛頭ありません。つきましては、今後は裁判所の特定調停の席で、返済金額について話し合わせてください。」
手紙の宛名には、ヤミ金業者の正体(調べ上げた正式な商号、免許番号の有無、代表者の本名、代表者の自宅住所など)を記入して、こちらが相手のことを一通り調べたことを匂わせる文面にしておきました。
その結果、奇跡が起こりました。
翌日、なんと、ヤミ金 6 社中 5 社までが、「利息はもういらない」「手形の返却にも条件付きで応じる」と言ってきたのです。ただ、その時点ではまだ納得いく条件ではなかったので、即決せずじっくり交渉することにしましたが、昨日までと比べたら大変な前進です。
しかし、中に 1 社だけ、強硬な業者がいました。ここは千代田区神田佐久間町の雑居ビルにある E という無免許業者で、最も暴力的な雰囲気を漂わせているところです。私はこのE 社だけは一筋縄ではいかないと思い、訪問してじっくり交渉することにしました。録音機を持って、事前に家族に知らせておいた上で。
2.7 監禁される
3 月 1 日の夕方。E 社を訪問するやいなや、私は狭い会議室に閉じ込められ、お茶をかけられて、大声で怒鳴られ、土下座させられました。帰ろうとしても帰してもらえません。そして、電話機(固定電話の子機)を渡され、「ここから親戚や友人に片っ端から電話をかけろ!そして金を貸してもらえ!このままで帰れると思うなよ!」と脅されました。私はぐっとこらえて、「できません」と静かに答えました。
脅しはさらに続き、
「財布の中の現金を全部出せ!」
「自宅の登記簿謄本に短期賃借権を設
定したからな。中国人の占有屋を使って占拠してやる!」
「売掛金譲渡の内容証明をおま
えの取引先に一斉に送ったぞ!もう商売は続けられねえから諦めろ!」
「てめえはもう破
産して夜逃げするしかねえんだよ!」「借りたカネ返さねえクズ野郎!」
「自殺して死
ね!」
「このメガネ野郎!」と、さんざん大声で罵られ、その間、私はただひたすら、
「で
きません」と耐えていました。小声で。
数時間後、家族から「警察に通報した」と電話がかかってきて(実際は通報していなかったのですが)、やっと解放してもらうことができました。夜の 10 時過ぎだったと思いま
す。
いくら心の準備ができていたとはいえ、ここまでやられると、かなり精神的に疲弊してしまいます。心はもうほとんど折れかかっていた、いや、折れていたと思います。私は警察に被害届けを出すことも忘れ、とりあえずまっすぐ自宅に戻り、親に報告しました。深夜の家族会議です。
家族会議では、全員かなり疲れ果てていて、「もう自己破産しようか・・・」という意見に強く傾いていきました。戦意喪失寸前。しかし、いったんブレイクして、ベランダで冬の冷たい空気を思いっきり吸って、ビールを一缶空けたら、やや冷静に考え直すことができました。
そう、「もう一息」なのです。たまたま E 社だけは強硬だったが、他の 5 社は信じられないほどおとなしくなった。E 社にしても、手形を回そうと思えば回せるのに、回してきていない。起死回生のチャンスはあるはずだ。このまま長期戦に持ち込めば何とかなりそうじゃないか。しかし、予想以上に精神的負担が重いので、このままでは私も両親も参ってしまう。できれば早期解決したい・・・。
そこで私は、思い切って、最も頼みたくない相手に、お金を 200 万円ほど貸してくれないかと頼むことにしました。200 万円あれば、今のやり方でいけば、たぶん 700 万円のヤミ金をすべて数日のうちに帳消しにできると判断したからです。
そう決め、私は深夜に、最も頼みたくない相手(=妊娠中の彼女)に電話し、200 万円貸してくれと頼みました。理由については、「借金を整理するため‥‥」とまでは言いましたが、相手がヤミ金であることは言えませんでした。みっともないからという気持ちもありますが、それ以上に、お腹の中に子供がいるので、あまり刺激してはいけないと考えたからです。
彼女はあまり深く追及せず、二つ返事で 200 万円を用立ててくれました。決して余裕のあるお金ではないはずです。私は泣きそうになりながら彼女に感謝しました。同時に心の中で誓いました。「このお金を大事に使わなくては!生きたお金として最大限活用しなくては!」と。
2.8 一気に形勢逆転。ヤミ金の 700 万円が、140 万円に減る!
翌朝、私は父と 2 人で、神田佐久間町の暴力金融 E を訪問しました。そして、現金 40 万
円だけを机の上に乗せて、交渉を始めました。例によって録音機を忍ばせて、取引経過の表を見せて、それ以上の物は一切身につけないで交渉に臨みました。
E 社は 100 万円の借入残高(元金)が残っていると主張していましたが、今までに 20 万円ずつ 3 回、計 60 万円以上の利息支払いをしていたので、彼らのいう「10 日で 2 剖の利息」を無視すれば、法律上の残元金は「100-60=40」、そう、40 万円で済むはずです。そのことを説明して、「応じてくれなければ、この 40 万円はおたくに返さない。弁護士費用に充てる!」「先日の監禁のことも刑事告訴する。証拠は録音テープに録ってある!」とも語気を強めて主張しました。
まとまったお金のおかげでしょうか、それとも父同伴のおかげでしょうか、それとも録音テープが効いたのでしょうか。E 社は信じられないくらいおとなしくなり、わずか数十分の交渉で合意が成立。40 万円をその場で支払うと、「なにとぞ穏便に・・・」という様子で、預けてあった手形や白紙委任状などの重要書類を全部返してくれました。言葉遣いもなんだか丁寧な敬語になり、証拠になりそうな契約書類は全てその場で「シュレッダーにかけていいですか?」と訊いてきました。また、自宅の抵当権や短期賃借権を解除する書類もくれて、E 社との関係を完全に断つことができました。
同じような方法で、1-2 日の間に、残りのヤミ金 5 社も訪問しました。ある所では頭を深く下げてお願いし、またある所では警察や訴訟を匂わせ、録音機と取引経過表を使いながらうまく交渉しました。
結果、わずか 2-3 日間で、あれほど恐ろしかったヤミ金 6 社、700 万円の債務を、わずか140 万円少々で全社和解することに成功しました。弁護士にも裁判所にも頼らずに。まさしく、彼女の用立ててくれた 200 万円(140 万円)が、560 万円かそれ以上の債務圧縮効果を生んだわけです。おまけに債務整理に「勢い」と「自信」がつきましたので、単なる減額以上の効果をもたらしたとも言えるでしょう。
結局、ヤミ金に対しては、刑事告訴も特定調停もしませんでした。最終的に利息引き直しによる元金カットに応じてくれたことへの、せめてもの感謝の気持ちからです。私にも反省すべき点が多々ありましたから、心にしまっておくことにしました。
2.9 7500 万円の借金を、1 年足らずで 3000 万円以下に減らすことに成功
次に、商工ローンと消費者金融の整理に着手しました。途中、連帯保証人になっている父の友人(サラリーマン)が一括請求を求められるなど、予想外の出来事があり、何度かパ
ニックになりかけましたが、最終的にはおおむね満足のいく結果に終わりました。方法は、「特定調停」と「本人訴訟(過払い)」と「相手に訴えさせる」の 3 つをうまく使い分けました。
まず商工ローン。A 社(残債 1400 万円、取引年数 4 年以上、金利 35%以上)は特定調停で万事うまくいき、利息制限法引き直しで 300 万円に減り、その 300 万円を 5 年間の分割払い(将来利息 6%)で返すことで折り合いがつきました。
B 社(残債 600 万円、取引年数 5 年、金利 39%、手形貸付)は特定調停が不調に終わったため、仕方なく、地裁で「債務不存在確認請求訴訟」を起こしました。同時に、手形不渡りを防ぐため、「仮処分の申し立て」をしました。その結果、600 万円の債務が和解で 30万円に減り、30 万円を一括で支払って終了となりました。不渡りも回避できました。
3 社目の C 社(残債 2500 万円、取引年数 2 年半、金利 35%以上)は、特定調停ですんなりと和解し、2500 万円が、利息制限法で 1700 万円ほどに減り、将来利息 0%、6 年間の分割払いに応じてくれました。
こうして、約 4500 万円もあった商工ローンが、約半年間におよぶ裁判所での争いの未、約 2000 万円に激減。その間、きつい取り立てもなく、返済も暫定的にストップできて、ウソのように平穏な毎日を送ることができ、おかげで仕事に専念することができました。裁判所の利用価値の高さをつくづく思い知らされた数か月間でした。
同時進行で、父名義、母名義、私名義のカードローンや消費者金融の債務整理にも着手しました。
父名義の借金は、計 500 万円ほどありましたが、結果的には 1 年以内にゼロになりました。まず特定調停を申し立てて、ここで 500 万円が 100 万円程度と計算され、その計算内容に異を唱えたところ、最終的にゼロになりました。また、中に一社、調停前に訴訟を起こしてきた信販会社がありましたが、ここも取引年数が 10 年近くと長く(私が学生だった頃から自転車操業のため借りていたようです・・・)、金利も 25%以上と高かったため、利息制限法引き直しによる「過払い」を主張したところ、父のほうが形勢有利になり、いちど訴訟を取り下げられましたが今度は父のほうから訴訟を起こし、結果、70 万円の過払い金を取り戻すことに成功しました(父も毎週図書館に通って必死になって勉強していましたから、その成果でしょう)。
母名義の借金も、やはり特定調停と訴訟(訴えられた上で、法廷で和解交渉)の併用で成
果をおさめ、合計 400 万円前後あったものが、利息制限法引き直しで半分以下の約 200 万円に減り、金利ゼロの長期分割払いに落ち着きました。このとき、母はほとんど簡易裁判所へ行かず(ガンの後遺症があるため電車移動がやや不自由)、父が代理人?(選定当事者代表者?)として出廷し、それが認められました。
私名義のカードローンや消費者金融も、おおむね満足いく結果に終わりました。2000 年 2月に借入先 12 社のうち 9 社を特定調停し、残りの 3 社は調停からはずし、うるさい取り立てに耐えてしばらく返済ストップしながら、相手が法的手続きしてくるのを待つ(そして法廷で分割払いの和解をする)という戦略を取りましたが、9 社の特定調停は、650 万円が 400 万円ほどに減り、これを無利息で月々約 8 万円ずつ(約 4 年間)返済することで和解となりました。残りの 3 社は、数ヵ月後に 2 社が訴訟を起こしてきた末、分割払いでの和解となり、残りの 1 社は個別交渉で 50 万円の残元金を 20 万円一括に値切って和解成立しました。このようにして、私名義の 800 万円近くあった借金も、500 万円以下に減らすことができました。私の場合、取引年数が比較的浅く、利息制限法引き直しによる劇的効果があまり期待できなかったのですが、当時としてはこれでも大変満足のいく結果でした。
2.10 業績回復……徐々に安定化
結局、我が家の借金は、ピーク時に 7500 万円近くあったものが、2000 年秋までの間に、利息制限法引き直しで 3000 万円以下にまで減りました。またこれに加え、裁判中に返済を暫定的にストップすることができたため、資金的にも精神的にも余裕が生まれ、本業の商売に専念することができ、おかげで売上増加し、稼いだ金で残債を徐々に返せるようになってきました。そしてあっという間に 1 度目の不渡りから半年が経ち、2 度目の不渡り(銀行取引停止)の危険性が消えました。
2.11 しかし、借金地獄を脱出した後も思わぬ「苦悩が」・・・
このように、倒産回避は成功しましたが、残念なことに、生活再建の面では、決してうまくいったわけではありません。その陰には大きな失敗や、悔やんでも悔やみ切れないような出来事もありました。
まず最初に、「自転車操業」を止めたことによる資金不足に苦労しました。自転車操業しているうちは、ちょうど麻薬を打ち続けているときのように、さほど痛みを感じませんが、一度債務整理をすると、しばらくの間は信用情報機関に傷が残り(俗にいうブラック
リスト)、資金調達が困難になります。いっぽう、事業を経営していれば、仕入代金や諸経費の支払いは先に出て行き、売掛金回収はずっと後になるという事態が日常茶飯事であり、どうしても「つなぎの運転資金」が必要になります。債務整理後の最大の悩みはそれでした。特に我が家の場合は、輸入による仕入れが多く、売り先は卸売りが多いので、出て行く金は早く、入る金は慢性的に遅くなりがちな業種です。2000 年以降、帳簿上は黒字でも、手元にキャッシュが残らない日々が続きました。このため、事業としてはギリギリどうにか回していけても、自分の給料が出ず、結果、妻子に生活費の苦労をさせる結果になりました。
子供が生まれる前後の時期でしたので(2000 年 8 月に入籍、9 月に無事出産しました)、妻にお金の心配をかけるのがあまりにも忍びなく、また、実家の両親にこれ以上お金の苦労をさせるのも嫌だったため、私は一人でこの悩みを抱えました。副業もしました。
そしてある日、絶対にやってはいけないことをしてしまいました。家族に内緒で、私の非常に親しい知人から、3~4 回にわたって、百万円単位のお金を借りてしまったのです。それも、月に 1 剖(年利 120%)という高利で。単に知人からカネを借りるだけならよくある話でしょうが、月 1 割という違法金利を要求され、しかもそれが、親しい人物だっただけに、いろいろな意味で心が痛み、悩みは余計に増えていきました。この人からは最大で 600 万円の借用書を切りました。利息は先に天引きされ、実際に受け取ったのはもっと少ない金額でした。
資金を調達できたおかげで、しばらくの間、事業の運転資金も家の生活費も用意することができましたが、その代償として、家族との信頼関係や友人との人間関係など、多くのものを失いました。
結局、この知人からの借金は、隠しきれず妻にばれることになり、2001 年秋、息子が 1 歳のときに別居しました。その後しばらくして妻は戻ってきてくれましたが、罪悪感と気まずさのため、もはや自然にふるまうことができなくなり、夫婦の会話は激減。その閉塞感をなんとか打破したいと思えば思うほど意識過剰になり、ますます身動きが取れなくなっていきました。仕事をやや犠牲にして息子の保育園の送り迎えを毎日したりしていましたが、それも今思えば、別れを予感して必死だったのかもしれません。結局、2003 年に再度の別居となり、妻は 3 歳の息子を連れて出て行きました。2004 年には借りていたお金を全額返しましたが最早そんな事では修復できず、月日を経て、2006 年に正式離婚しました。
話は 2000 年に戻りますが、このような事がきっかけで、私は、自分の弱さを再認識すると共に、「借金」について自問自答する日々が長く続きました。
「借金は悪なのか?排除すべきなのか?」
「いや、排除したら事業が存続できないじゃないか?どんな会社だって借金はあるぞ」
「債務整理をして一度信用を失ったら、やはり再起できないのか?」
「そんなはずはない。あってはならない。何か良い知恵を振り絞って、逆境と戦いながら
事業を発展させるのが俺の使命だ!」
「逆境と戦い抜けるたくましい男になりたい!」
「世の中にはきっと同じような境遇の人がいるはずだ。彼らはどうやって苦境を乗り切っ
ているんだろうか!?」
そんなことを考えているうちに、2000 年が暮れていきました。
実にいろいろなことがあった 1 年間でした。
2.12 ホームページ開設。吉田猫次郎誕生 ~ 何かを得たい&与えたい
年が明けて、2001 年の正月休みのこと。生後 3 か月の息子の寝顔を見ながら、私はふと、自分のこれまでの借金地獄の体験を、体験記としてホームページに書き綴ってみたい衝動に駆られました。理由はふたつです。ひとつは、自分と同じような境遇の人がいたら、何かの参考にしてもらいたいという、いわば「何かを与えたい」という気持ち。もうひとつは、同じような経験をしたことのある人がどのくらいいて、どのようにして厳しい現実を生き抜いてきたのか、情報を交換したいという、いわば「何かを得たい」という気持ち。
このふたつの動機に駆られ、私はパソコンショップでホームページ・ビルダーというソフトを 7980 円で購入し、正月休みから毎晩、1 週間ほどかけて、自分の体験記といくつかのコラムを書き綴った『借金地獄・倒産危機から、自力で脱出する方法』というホームページを開設しました。それが当サイトです。この時、さすがに本名を名乗るのは恥ずかしいので、適当に「猫次郎」などと名乗りました。これが吉田猫次郎の始まりです。
2.13 私よりも悲惨な人が、大勢いることに気づく
開設してみると、あまりの反響の大きさに驚きました。ホームページを開設したのが 2001 年 1 月 10 日でしたが、その後 2 週間後にはアクセス数は 1000 件を超え、半年後には 2 万件、1 年後には 5 万件、1 年半後には 10 万件を超えました。(当時としてはかなりの数でした)
メールの数も、毎日 5 通、10 通と日増しに増えていきました。メールの多くは、倒産危機に瀕した自営業者からの相談です。借入総額数百万円から 5000 万円以下という、私から見れば「まだまだ軽いほう」の悩みでしたが、中にはヤミ金 10 社以上から借入のある自営業者や、億単位の借金がある中小企業経営者からの逼迫した相談、果ては自殺未遂を起こしたが死にきれなかった方からのお便りなどもいただきました。どのメールも長文で深刻です。本人にしてみれば、生きた心地がしない毎日を送っていることでしょう。
私はそれらのメール相談に、毎晩毎晩、無償で返信し続けました。中には私の能力で答えられないこともありましたので(不動産競売、銀行対策などは未経験に近かった)、そういった相談には、あわてて返信せずに、ネットや書籍で自分なりにじっくり調べてから返信するようにしました。このような作業を、2 年近く、毎晩継続しました。ボランティアのような感覚ではなく、情報のギブアンドテイクを求めて。
2.14 アクセス数飛躍、専門家の人脈発展、相談レベルアップの相乗効果
あまりにもメールの相談が増えてきたので、少し効率化を図ろうと、ホームページ上の情報量を大幅に増やすことにしました。初歩的な質問はホームページを読んで理解してください、と。
しかし、効果は予期せぬ方向へ向かっていきました。ホームページの内容が充実していくにつれ、アクセス数は 30 万、50 万とさらに伸び、メール相談もますます増え、しまいには雑誌社からのインタビューや地域新聞からの連載依頼まで来るようになってしまいました。また、弁護士さんや司法書士さんからのお便り(読み応えがあった、体験記を読んで感動した、等)も増え、次第に士業専門家との人脈も増えていくことになりました。すべてホームページ開設がきっかけになって。
膨大なメール相談には相変わらずひとつひとつ答えていましたが、難しい相談については、ネットで知り合った専門家の方たちが、嫌な顔ひとつせずに、私に詳しく敢えてくださるようになりました(これにはいくら感謝してもし切れません)。
このような一連の作業を百件、千件、と積み重ねていくうちに、私は、自営業~零細企業の倒産危機に関しては、どんなにヘビーな内容であっても、一通りの解決方法をアドバイスできるようになりました。これが今の私の活動の基礎になっています。
こうして、個人的動機でひっそりと立ち上げたホームページが、吉田猫次郎というペンネームと共に、独り歩きしていったのです。
2.15 本を出す
実家の借金は順調に減っていき、高金利の借り入れも実質ゼロ金利となり、余裕はまだないものの、割と落ち着いた生活ができるようになりました。また、月によっては入出金とのバランスとの兼ね合いで運転資金不足に陥ることがありますが、あまり動じなくなり、マイペースな生活、マイペースな経営、マイペースな返済を続けていくことができるようになりました。
2003 年には著書を 2 冊ほど出版させてもらう機会に恵まれました。同時に、私は家業を親にそっくりそのまま返し、私自身は「事業再生コンサルタント」として独立する決心をしました。
2.16 そして現在
ここからはサラッと書きます。
著書は 2003 年から 2019 年までの間に 13 冊(単著 8 冊、文庫化 1 冊、共著 3 冊、ムック本 1 冊)を出す機会に恵まれました。共著とムックを除き、すべて自分で書いた印税契約です。と言ってもベストセラー作家ではないので、印税で大儲けとまではいきませんでした。(1 冊につき本の定価の 6~10%が私の取り分で、1 冊につき販売部数が 1 万部前後で、年間平均 1 冊だとしたら・・・?計算してみてください)
テレビ出演の話も 2004 年頃から増え、最初は恥ずかしいので絶対イヤですとお断りしていましたが、2005 年に「ガイアの夜明け」という番組に 10 分ほど出演して以来、次第に慣れていき、これまでに「報道ステーション」「報道特集」「リアルタイム」「ホンマでっか!?TV」「バイキング」など、報道番組からバラエティ番組まで多数出演させていただきました。極めつけは、2020 年 4 月、NHK 全国放送の「逆転人生」という番組で、約 45分間、まるごと私の特集が組まれたことです。ここに書いた借金地獄体験談も、再現ドラマとしてオンエアされました。猫次郎というペンネームを使わず、本名の吉川博文として長時間出演したのでやや勇気がいりましたが、結果は大反響で、その後も 2 回ほど再放送されました。
事業再生コンサルタントとしては、創業期の 2003 年頃はカネなし、コネなし、資格なしの手探り状態から始めましたが(当時は事業再生というカテゴリーもほとんど耳にせず、業界黎明期で、私も自分の職業を何と名乗るべきか定まっていませんでしたので、最初の
1 年くらいは借金コンサルタントと自称していました・・・)、元から自分一人ではできないと自覚してしましたので、多くの専門家の力を借りて成果を出してきました。
セミナー講師としては、自殺防止系の全国的なシンポジウムでのパネリストおよび基調講演、商工会議所や商工会や青年会議所での講演会、専門家向けの研修会などからも沢山お呼びがかかりました。
そして、知名度が上がるにつれて、何か資格を取得したい、もっとレベルアップしたいという気持ちが強くなり、2009 年には認定事業再生士(CTP)という民間資格を取得しました。この試験は全科目論述式で、たとえば 3 期分の財務諸表を見てその会社の企業価値を算定せよとか、キャッシュフロー計算書を作成せよとか、法的整理と私的整理の違いにつぃて述べよとか、そんな問題を白紙の回答用紙に書くような試験でした。CTP のメンバーは非常にレベルが高く、弁護士や公認会計士やメガバンク、公的支援機関などの方々も多く所属しており、そのつながりによって得たものは計り知れないものがあります。
また、2015 年には中小企業大学校の経営改善計画策定支援研修を受け、修了し、能力判定試験にも合格し、その年から国の経営革新等支援機関にも登録させてもらうことができました。
最後までお読みいただきありがとうございます。
家業の連帯保証人に端を発して多重債務地獄に陥った不幸体験が、結果として、たくさんの中小企業のお役に立てるようになり、メシの種にもなってしまいました。
これからも求めがある限り、がんばります。